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平泉藤原氏の時代に因んだ仏像 構造は頭体部を一材から彫出し、両脚部を横一材で作り矧ぎ付け、内割は施さず、現在は後補である二重円相の光背と四重の蓮華坐を有しています。像容は、肉髻を作り、螺髪を彫出し、大衣を着けて定印を結び、螺髪を小さく刻み、穏やかな顔つきを呈しています。大衣を通肩に懸けるように見える点は、如来像の大衣の懸け方についての理解不足がうかがわれるものの、全体の穏やかな様子や、両脚部を薄く作っている部分からは、中央の11世紀後半以降の様式をよく学んでいる様子を示しており、像容の特色から平安後期にあたる12世紀の造像が考えられます。 北東北における阿弥陀像の造像並びに、定印の阿弥陀の造像は明らかな造像例としては12世紀を遡ることが困難であることから、奥州藤原氏とこの造像がどのように結びついていたかは定かではないものの、11世紀末ごろからの北東北での阿弥陀信仰の顕著な資料としてのみならず、当地方の信仰を知るうえでも重要な資料です。平成5年2月24日町指定/現在市指定
平泉藤原氏の時代に因んだ仏像
構造は頭体部を一材から彫出し、両脚部を横一材で作り矧ぎ付け、内割は施さず、現在は後補である二重円相の光背と四重の蓮華坐を有しています。像容は、肉髻を作り、螺髪を彫出し、大衣を着けて定印を結び、螺髪を小さく刻み、穏やかな顔つきを呈しています。大衣を通肩に懸けるように見える点は、如来像の大衣の懸け方についての理解不足がうかがわれるものの、全体の穏やかな様子や、両脚部を薄く作っている部分からは、中央の11世紀後半以降の様式をよく学んでいる様子を示しており、像容の特色から平安後期にあたる12世紀の造像が考えられます。
北東北における阿弥陀像の造像並びに、定印の阿弥陀の造像は明らかな造像例としては12世紀を遡ることが困難であることから、奥州藤原氏とこの造像がどのように結びついていたかは定かではないものの、11世紀末ごろからの北東北での阿弥陀信仰の顕著な資料としてのみならず、当地方の信仰を知るうえでも重要な資料です。平成5年2月24日町指定/現在市指定